―――― なんだか変な雲ゆきだ。



 教室の窓から空を見上げてそう思ったのは昼すぎだったが、それは続き、部活が始まる頃にはいつ降り出してもおかしくないくらい暗い黒い雲になっていて。

 案の定、そしてちょっとだけ幸いに、部活終了とほぼ同時に降り出した。




視力論.3





 今までためてたのか、一度降り出すと勢いがすごい。

「はやく部室行って。濡れて風邪ひくんじゃないよ!」
と竜崎監督の指示をもらってみんな一斉に部室に駆け出す。


「一年は悪いが、ボールだけ頼む」
 申し訳なさそうに大石副部長が言って。




 ―――― げ。そーいや今日の片付け当番て俺じゃん。

 と気づいた。










 かなりの実力社会を誇ってることで有名らしい青学テニス部だけど、それでも学年差というのはあって、それが練習前のコート整備をする準備班と、練習後の片付け班だったりする。

 俺はレギュラーだけど、これは外されなかった。ま、別にいいけど。いや、やっぱこんな日はやだけど。



 まぁどうせ傘持ってきてないし。
濡れるのは一緒か。

 あきらめてそこら中に広がったボールを拾いに行こうとする。(もうひとりの当番のカチローはとっくに拾いはじめてた。大石先輩の声に「はいっ」と返事して。マメだ)

 ラケットを別の一年に預け、とりあえず手近にあったボールを拾う。雨は激しく降り落ちていて、すでにボールは水分を含んで重くなっていた。硬式ボールは濡れてしまうとやっかいだ。



 そこに、
「わー大変ー。がんばってねん」
 いつもと変わらない、ふざけた口調。


 見上げて確かめるまでもなく、菊丸先輩だった。

 ヒトの不幸を面白がっちゃう性格のこのヒトは、
「風邪ひいちゃダメだよ〜」
 『心配』の気配のカケラもなく言い、ひらひらと手をふって去ってこうとする。なんてヤな上級生だ。

 そう言うなら、その足元のボールくらい拾えよ、なんて思ったけどやっぱ後輩だし。俺よりこのヒトのが風邪ひきやすそうだし。口にするのはやめた。


 代わりに、集めたボールを菊丸センパイの斜め前に置いてあるカゴに投げ込む。もちろんナイスイン。
 菊丸センパイも「おっ、やるじゃん」なんて言って次もやってという感じに見物してる。濡れるのが嫌ならさっさと部室に行けばいいのに。

 リクエストされてる気分になって、つい続投してしまったのがマズかったのか。

 利き手でやらなかったことと、ふいに強風が吹いたこと、俺が拾って投げたボールが、たまたま泥がかなりついてて、水分も含んだ重いボールだったこと。



 こーいうのが一気に悪い方に作用して、ボールは狙いをわずかに逸れてカゴの枠に飛んでいった。
 ビッ、と音をたてて枠がボールをはじき飛ばしてゆれる。
とばされたボールは地面に勢いよく落下して、これまた運悪く、早くもできはじめてる水溜りに落ちて。

 ハネた雨水+泥が。


 菊丸センパイの目に入った。











「だーっ いたいいたいいたい〜っっっ」


 大げさにわめいたのは、このヒトの性格だから仕方がない。

 大したことないだろうとは思うものの、そうわめかれるとやっぱり心配になる。なんといっても加害者はまぎれもなく俺だし。慌てて駆け寄った。
 同じく球拾いしてたカチローも菊丸センパイの声にびっくりしてこっちを見てる。


「いだい〜〜〜」
 乱暴にごしごしこすっている細い指の隙間から見えた左目は、いつもは茶色い虹彩でキレイなのに痛々しく充血して涙ぐんでいて、なぜだかドキリと心臓がハネた。



 ―――― 罪悪感


 のせいだろうきっと。






 いつの間にかそばに来ていたカチローも心配そうに眉尻を下げて、
「早く洗った方がいいですよっ、リョーマくん、連れてってあげて!」
 と上ずった声。

 その言い方がなんだかやけに切羽詰まってて、オイオイ別に菊丸センパイはキトクじゃないし、なんて内心つっこんでたりしてる間につい反応がおくれ、俺はなしくずしになんとなく、というカンジでうなずいてしまった。








 水道は部室のすぐ横だから、そこまでグラウンドを通って歩くことになる。
目を開けてられない菊丸センパイが足をとられないように、その左手をひっぱりながらのろのろ進む。
 そうして気づく。校庭ってけっこうデコボコしてる。
いつも普通に走ったりしてるけど、意外な凹凸がある。石もまじってるし。


 ―――― だから、このヒトを連れてくのに手を引いてあげることは正しい。ってか しなきゃヒトとしてダメじゃん。


 俺は誰かに心の中で言い訳をする。


 ハタから見たら、泣いてぐずってるセンパイを引っ張ってく後輩、という変な図、だろう。菊丸センパイはてくてくと目をこすりながら俺についてくる。左腕を体重ごと俺にまかせてるその様子は、なんだか幼かった。




 ――――ちゃんと手をつないだら、もっと違って見えるかな。


 違って?。それってなんだろう。

 俺は菊丸センパイのジャージの上から想像以上に細い腕をつかんでいた。袖から、骨の形でラインを描いてる手首と甲、関節の目立つ指が見えた。



 ―――― この手をつないだら、もっと違って見えるかな。



 だから違うって一体なんだ?。


 自分で再度ツッコみつつ、ただ、もしこの相手が別の・・・たとえばカチローだったり桃センパイだったり・・・とにかく別の相手だったら。


 腕じゃなくて。そこからあと20センチ下の手のひらに触れたいなんて、きっと思わなかった。


 それだけは、なんだか悔しいほど痛感できた。















 水道につく前に部室を通ったので、俺はタオルを取ってこようとドアを開けた。
 急いで入ってきた俺に、どうかしたかと尋ねられたので状況を説明する。

 尋ねたのは大石副部長だったけど、それをほかの上級生も耳にしたらしく、口々に心配しはじめた (同い年なのに過保護だ、あいかわらず)。


 外で待たせてたはずの菊丸センパイも、あまり見えないのにふらふらと部室に入ってきた。
 (ちょっとの間とはいえ) ひとりにされてヒマだったのかもしれない。いや、単にみんなに心配されたかっただけかもしれない。
 ・・・・・・・・・・・後者な気がする。

 だって現に
「エージ、どっち痛いの?、両方?。早く洗わないと」
「でも水道水ってよくないって言わないか?」
「えっ、よくないのか?!」
「エージの目が悪くなったら大変だ!」
 みんな菊丸センパイを中心に、世話焼きオバチャンよろしく わいわいと取り囲んでいる。見慣れたというとそうなんだけど、あのノリにはちょっとついてけない。このヒトはちやほやされるのがサマになる・・・・・・・かも。




 そこに、その輪の外から意外な声。

「使うといい」


 低めの声がそう言って、数歩だけ前に進んで小さな箱を差し出した。

 その声の主には 当の菊丸センパイだけでなく、俺含め、全員が多少なりともビックリしたはずだ。



 手塚部長。



「あ・・・うん」
 かなり意表をつかれたらしく、真っ赤な目の菊丸センパイはコドモじみた仕草で大きくうなずいた。

 それから、自分から手塚部長の方に一歩踏み出して(けっこう見えてるんじゃ・・・)、差し出してくれている小箱を受け取る。

 案の定、それは目薬だった。パッケージにはご丁寧にビニールまでかかっている。


「・・・手塚の?」
 菊丸センパイは触感でものを確かめようとするように、パッケージの表面を親指でなでながら尋ねた。

「そうだ、今日買った」
 目薬は使いまわさない方がいいのを知っているらしい手塚部長は新品だということを告げる。

 それを聞いた菊丸センパイは目薬にすっと目を落としたし、それに、やっぱり鮮明には見えてないはずだから、その時の手塚部長のかすかな表情の変化には気づかなかったに違いなかった。


ほんの少しだけ。
気遣ったような。
心配したような。



 ―――― そんな目をしたんだけど。





 それきり言うべきことは終わったと思ったか、すっと背を向けてしまう。

「よかったね、エージ。水で洗うのもよくないみたいだし。もらっときなよ」
 横からいつものニコニコ顔で不二センパイが声をかける。


「あ、うん。手塚、ありがと!!」

 菊丸センパイがその後ろ姿に礼を言った。




 親切にされなれてるこのヒトだけど、手塚部長にそうされるのはきっと珍しいはずで。

 その声は、とても弾んでいた。











 ―――― そういえば、部室に入るとき、手を離したんだっけ。



 今は俺にひっぱられることなく、手塚部長からもらった目薬を大事そうに持っているその左手に、なんとなく目をやった。







 たとえばカチローだったり桃センパイだったり・・・とにかく別の相手だったら。


 腕じゃなくて。
そこからあと20センチ下の手のひらに触れたいなんて、きっと思わなかった。






 それだけは、なんだか悔しいほど痛感できた。








つづく



 

はやく目薬使いなさいよ。
By.伊田くると



不二 「こんなタイムリーに新しい目薬持ってるなんてすごいよね」
大石 「実はいろいろと隠し持ってるのかもな」
モドル




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