それからのことはよく覚えていない。

 いや、それは嘘だ。覚えている部分はちゃんとある。あとは抜けてる部分と忘れたい部分とがあって、記憶が断片的だ。


 京都へと帰る新幹線の中。車内は異常なまでに暖かい。うつらうつらしつつ、俺は昨日から今日にかけて ―――― を整理しようと試みた。今後のためにも。

 なぜなら。






 また悩みの種を増やしてしまったからだ。







なじみ・2
















 府警で森下刑事に誘われた俺は、彼行きつけとの飲み屋に足を運んだ (いかにも大阪!という感じの店だった)。つまみも冷めた仕出し弁当よりずっとうまそうで、やっと食欲も出てしこたま飲んで。


 それで。

 これから帰るのも大変だし、良かったら、と招かれたのに甘えて、俺は彼の自宅に泊めてもらうことにした――――んだった。

 署の仮眠室に泊めてもらったことは何度かあったが、住居にお邪魔してしまうのには普段なら気が引けたはずだ。そんなに親しいわけでもないのだし。が、酔っ払っていたので俺も彼も大雑把な気持ちだったのだと思う。

 独身寮ではなく、普通のアパートの住居だった。人を招くことも多いのか綺麗で、服やゴミが少し散らかっていた程度。日々忙しいだろうから、恋人が掃除してくれているのかもしれない。
 ワンルームなのでベッドに背を預けて並んでフローリングに座り (刑事はクッションを渡してくれた)、途中で購入した酒とつまみを並べてまた飲んだ。


 ひょっとしたらこの頼りなさげな細身の男は、かなり酒に強いのではないかと思う。後にして思えば、だが。

 サシで飲むとついペースがつられてしまう。
明日は二日酔いだと覚悟した。

 ふたりとも、明日は休みで、だからこそ飲むのに遠慮がなかったのだが。




 そして。

 ―――― 言いにくそうでしたけど、お悩みってなんだったんですか?。

 水を向けてきた隣の男に。

 脳の検閲がダルダルになっていた俺は、催眠にかかったように、ぺらぺらと話してしまうことになったのだった。
 前の飲み屋でもちらっとは聞かれて、そのときは誤魔化したのだれど、自分達以外誰もいない部屋、というのに安心してしまったらしい。

「火村先生が悩むことってなんなのか、興味があります」
 酔った男がさらりと本音をもらしていた気もするが。

 
 なぜか、俺は彼を相談相手に選んでしまった。



「・・・・いい年して、恥ずかしいんですけど」

「・・・・今、どうしたらいいか、悩み中なんです」

 ああ、マズイな。と心のどころが思ったけれど。
まあいいか、の方が強かった。酔っていたから。

「何をですか?」

「私の、友だ・・・いや、たぶん、コイビト、が、俺に・・・」

 だから、どんなやりとりをしたか、全部は覚えていない。







 相談? というより暴露は続いてしまった。
幸いにも刑事は男同士という俺にとって最大の難関もさほど仰天せず、話を聞いてくれている。仕事柄慣れているのだろうか。

 ひとしきり聞いてふーむと唇をとがらせ、
「抱くか抱かれるか、ですかー。なんか、殺るか殺られるかみたいですね。究極の選択だ」

 その通りだ。

「そうなんです。両方嫌なのはもちろんですが・・・・特にその、される、側というのはありえないというか」

「わかりますわかります」

 うんうんうんうんと首をちがえそうなくらい力いっぱいうなずいて同意された。

「僕もね、まあオカマさんとかに声かけられることは少なくないんですよ。で、彼女らはたいていは抱いて欲しいって感じなんですね。でもたまに逆の人もいはって、それはほんとに仰天しました」

 それはすごい。

「どっちかせなあかんのなら、そりゃまだ抱く方がね、ええですけど。でも、」
 そこでうなずくのをやめた彼はぴたりと俺に目を合わせた。

「でも先生!。抱くったってね、勃たなきゃできないですからね!!」
 びし!! と指を指された。

「え」

「だから、いくら悩んだって、先生がちゃんと勃たないとセックスなんてできないわけですから!!」

 うんうんうんうんとまたうなずくモードに入った刑事は、指差しをやめてあいた手で俺のグラスを満たしてくれる。

 勃つの勃たないのなシラフじゃできない赤裸々な話に、つい俺もまた ぐいと口をつけてしまう。

 こんなに酔ってるのも、こんな話をするのも、初めてかもしれない。

 しかも相手は、年下で、仕事の知り合いだ。

 まずいのは分かるのに、でもまあいいか、と酩酊した判断は変わらない。
いや、ここまで話してしまったんだからもうヤケだ、という思いもあった。


「先生は、ヤれそうですかー?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヤ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ヤれそう、て。


 ―――― そんなの、もう何度も考えた。

 実を言えば目の前のあんたすら その対象にできるかと考えてもいたのだ。

 でも無理だ。
アリスを見て勃起なんかするはずない。あいつがどんなセクシーポーズ(言ってて気味が悪い) をしてくれようが、1ミリも動かないと断言できる。

 が、森下刑事の言うことももっともだ。
抱くとなったら能動的にいろいろしなきゃいけないことも増えてくるわけだし・・・・・つまり女にするようなアレコレを、あいつに・・・・・・・・・・・・・・う・・・・。

 困った(そしてちょっと吐き気も感じてゴクリと唾を飲んだ) 俺を見下ろし、刑事は判決を下すマネなのか、グラスをコンコン! と音を立てて床に置く。

「こんなに悩むより、この際もうヤっちゃえばええんじゃないですか?。うーんー・・・・恋人なのに何もしないってのはキツイでしょう、男は」

 自分の発言に感心しきり、のていで またもうんうんとうなずく刑事。クセなのか。男前だが顔だけ赤い。

「男側としてはー、こういうの、早い方がええと思うんですよねー」
「そ、そうですよね・・」

 こんなに待たせていることには確かに罪悪感がある。告白(!!)から数えて1ヶ月にもなるのだ。

 でも結論は出ない。
いや、今日初めて胸のうちをさらした相手は、多分結論を出してくれる。

 そんな気がした。



 予想は当たり、彼はにっこり笑った。

「僕分かりましたよ先生」

 ほら。

「抱かれる方がええんやないですか?。先生勃ちそうもないし。もうマグロでおったらええんでしょ。相手のこと嫌いやないならなんとかなるんやないかな」


「・・・・・・・マグロ・・・・・」

 漁船。

 頭の中を、壮大な海を走る男の船が通過した。




2010/12/20 (月)








 日付はとうに変わっていた。
酒も尽きてきた。

 長い相談を聞いてくれた青年は、これが正解ですという自信に満ちたにこやかさで答えをくれた。そう思った。

 それがいいのかもしれない。その説得力に納得しそうになる。けれど。
けれど。


「そうはいっても・・・俺が相手じゃ」

 それが問題だ。











 『私』からいつのまにか『俺』になっている。とっくの昔に互いに敬語が崩れ始めている。
 ふたりとも酔っていたのだ。

 これは互いの名誉のためにも声を大にして言いたい。と後に俺は思う。
そもそも酔っていなければアリスにも面識のある彼にこんな赤裸々相談をもちかけるはずもないのだが。


 しかし、俺がマグロ漁船に乗り込むことで、事態は解決にいたるか否か。
俺がマグロで、アリスはいいんだろうか。
だって、俺だぞ?。

「・・・俺なんかが相手じゃ、相手だって勃たないんじゃ・・・」

 なんだか急に不安になった。

 冷凍のマグロな自分が思い浮かぶ。ガチガチで冷たくて刃も通らない。値もつかない。そんなイメージだ。というか思考の半分くらいがマグロになっていた。魚の方の。高級魚なのに、不名誉な隠語になってしまって、少し不憫だ。




 うつむく俺の上から、同じ酔っ払いの声がした。

「えー?。心配なんですかぁ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うーーーんー・・・・」


「だいじょぶと思いますけど〜」

 語尾が伸びている。
ほんの少しのセンテンスにも、俺にはない、アリスにはある西のイントネーションが混じる。それはとても心地いい響きだ。


「・・・・・・・・あ。俺、考えたんだけど。いや、今思ったから思いつきであんまり考えてないんですけど」


「正直僕も、どんだけかわええ見かけでも、ごめんこうむるって感じやったんですけど。いや、そうなんですけど」

 ああ。オカマバーで迫られたって話か。
ごめんこうむる。そうだよなあ、普通。俺だって無理だ。


「でも俺火村せんせいなら、俺、俺も、だいじょうぶな気がする。勃ちそうです」

 だいじょうぶ?。
なにが?。

「せんせいのこと、抱きたいって言った奴の気持ちが、ちょっとわかる、ような、うん。なんか」


 勃つって言った今?!!。


「っ!!??」
 あまりに穏やかでない発言に慌てて顔をあげた。ぐらりと眩暈がした。

 にっこり笑った好青年の顔のまま、今とんでもないことを言われた気が。
そしてダメ押しの、


「アリな気が、今しました」

 それはええと、勃つと。
抱けそうだと。
俺を。



 ひえーーー。

 あ、あんた、アリなの!?。

 俺がマグロでマグロが俺で、それで俺とって、だいじょうぶって。


 柔軟な若者の見せる寛容さなんだかなんだか、アリでいいのかそれ?!!。
なんのシミュレートをしたっていうんだ。

 相談に乗ってくれていたはずの男はうんうんアリだアリだとつぶやいている。
 気づけば日に焼けたぐいと腕がのばされ、俺の体の向きを直そうと肩をつかまれる。衝撃を受けすぎてしまったせいか、金縛りにあったように体が動けない。いや、単に酒のせいか。

 対面に互いの体を持ってこられて向かい合い、んー、じゃためしにチュー、などと言いながら近づいてきた森下刑事も、いい加減見た目以上に酔いが回りまくっているようだが、顔に見合ってプレイボーイなのか、やけに慣れたしぐさで肩からはずれた指が耳の下に置かれ、くいとあごをひかれる。

 そして、上手にぶつからない角度に顔をかたむけた刑事の閉じたまぶたがやけに近い近い近い!!!とのけぞりそうになって、でもつかまっててのけぞれないと分かった瞬間にはもう唇が合わさっていた。


 ひ、ひえーーーー。


 最近自分はひえーーと思うことがありすぎだ。とつい自分につっこんだ。おかしい、ほんとはこんなキャラじゃないはずなのに。

 キスを相手からしかけられるのは初めてではないが、男からというのはもちろん初体験で、アリスとだってまだしていない。清いおつきあいだ。いやほぼ友人のままだ。


 あごと首筋に当てられた指の熱さや力強い感じや、額にあたる短い髪の感触や、なにより強気なキスの仕方や、


 ひ え ー ー ー


 という感想しかない。


 初心な小娘みたいになんの反応も返せずに唇をかたくとじて固まってしまった状態の俺を、やっとキスをやめてくれた刑事が目を細めて見つめた。はかったように綺麗な二重だ。と関係ないことに気づいた。距離がまだ近い。

 呼吸が自由にできなかったせいか、心臓がバクバクいっている。恥ずかしさや驚きからで、ときめきなどではないが、それでも酔いのせいでなく赤面してるのが分かった。顔表面の温度が2度は上がった気がする。

 まだ彼の手が俺の顔を支えるように当てられていて、その手も熱くて、間違いなく男の手の強さだった。

「キス、しちゃいましたね」

「・・・・・・・・・・・・・・・はぁ」
 どうしたらいいやら。気の抜けた声がでた。


「俺やっぱり全然アリでした。せんせいはどうでしたか?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 嫌、ではなかった・・・・と思う。
とにかく驚いてビビったが、気持ち悪いとは思わなかった。はずだ。多分。

 驚きすぎて思考が飽和してるというのが正確かもしれない。

 けれども、アリかナシかと言われたら、

「アリ・・・・です・・・・・たぶん」

 たぶん、そうなる。

 呼吸はもう自由に出来るのに、なぜだかまだ苦しい。


 よかったぁ、とすぐ近くで無邪気に笑う顔は、屈託がない若者そのもので、いや子供みたいで、スーツなのがむしろアンバランスに見えるほど幼く見える。なんだかちょっとうらやましい。
 まぶしく思えた。アリスにも時折感じる、せつないほどの憧憬だ。

 そんな時代は俺にはなかった。何も影がなく笑ったことなんて・・・。

 薄暗い過去に足を踏み入れそうになる。理性が薄くなっているせいか、ふだんより過去を手繰り寄せるのにブレーキがかからなくなっているようだ。



 ――――アリス。


 あいつは、本当に俺で、いいんだろうか。

 男がいいなら(あいつはゲイじゃないと思うけど)、俺より、目の前の男のが、ずっとふさわしいんじゃないか。

 今キスした相手じゃなくて、今日もいつものマンションで仕事しているだろう小説家の顔が浮かぶ。
















 セックスするのしないのの話になった日、逃げの一手で結論をまた未来にぶん投げた俺を許したアリスは、

「こんな会話って、なんか、気恥ずかしいよな」
 どこか優しく穏やかな声で、俺に言った。

「お前とはもう10年以上一緒で、なんか、幼なじみみたいなもんやし」

「幼くはないけどな」
 出会ったのは大学時代だ。テンパってた割にツッコミだけは稼動してた俺の訂正に、アリスは笑った。少しいつものふたりに戻った気がした。


「でも、俺、友達が長かったから。好きだったけど、友達で、気まずくて」


「関係を変えるのって、すごく難しいなって。こういうの、まるで幼なじみの恋みたいやって、思う。ちょっと恥ずかしいけど」



 後ろ頭をかいて、俺から目をそらして笑った。
その照れ笑いを見て、心がぽわっとあたたかくなった。



 やっぱり手を離したくない。


 俺から離したくない。





 お前と同じ気持ちを返せず、ずるい言い訳と逃げばかりなのに、俺は、その欲求に、逆らえない。







 セックスがどうこうより、
自分のエゴしかない卑劣さに目を向けると、とても苦しい。















 ひどい顔をしていたのか、
「先生?、ほんとはヤでしたか?」
 そばにいる相手に心配そうに少し眉を下げてたずねられた。慌てて首を振ろうとして、顔に触れていた彼の手のせいでその動作ができなかった。視界がゆがむのは、嫌だからじゃなくて、全部自業自得なのにつらいからで。

 なのに優しい指はなだめるようにこめかみから頬へとすべり、また戻ってきた親指が、右目の下をそっとなでた。


「そんな顔、しないで。先生」


「またキスしたくなる」


 さっきまで優しかった指が違うものに変わり、強い力で顔を引き寄せられて。すぐそばの彼の唇に迎えられる。さっきと違い、立てられた歯で上唇を噛まれ、驚いたのと同時に舌がさし入れられる。

 唇をなで、歯の上をたどり、さらにその奥へと伸ばされた舌は熱くて、今日ふたりで飲んだ酒の味がした。

 キスの間に、頬や耳や髪からも彼の手を感じ、両手で顔を挟まれているのだとわかる。耳のかたちをなぞるようにたどられて、頭の裏をさわられると思わずゾクッときて、それが何度も続くと変な感覚になっていく。


 おかしい。まずい。こんなのは。


 いつのまにか唇が離れて、首筋に歯を立てられて、邪魔するもののない口が、声をあげた。

  おかしい。まずい。こんなのは。

  へんな声。こんな声、俺が。


 ぺろりと噛んだところをなめて、顔を上げた刑事は楽しそうに笑った。
「火村せんせい、きっと抱かれる方が向いてる思いますよ」




 俺も、してみたいです。


「マグロでええですよ」



 俺でよかったら、






 ためしてみません?







 その言葉に、なんて答えたのか。

 覚えていない。








 きっと答えてはいないのだ。


 答える前に、唇をふさがれて。





 そのまま、抵抗しなかった。








2011/02/20




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イダクルト
2010/12/20〜2011/02/20

モドル