北白川の火村の下宿。家主に部屋に上がらせてもらって ほんの半刻ほどで唯一の店子・火村英生が帰ってきたのに驚いた。
ふだんの彼なら、8時前に帰宅することなど めったにないはずだ。
火村の方も 突然やってきて玄関で彼を迎えた私の存在に驚き、前髪の間からのぞく両目をわずかに見開く。
「来てたのか」
独特の低めの声。
「・・・・・・・・」
返す言葉が一瞬みつからなかった。
火村が黒いネクタイに黒いスーツ。
喪服を着ていたから。
はしわたし
抱えている締め切りもなくなり、身軽になった私は足まで軽くなったか京都まで思いつきで出かけることにした。
私の中で京都といえば観光地ではなく、友人の住む土地だ。4年通った母校のある場所でもある。
浮き足立っていたので、火村に連絡も入れないまま、デパートをふらつき みやげをいくつか買った後は、彼の下宿に直行した。
私のような自由業者と違い、母校の准教授である彼は平日の今日も もちろん大学に詰めているはずで。いないのは分かっていたが、家主のばあちゃんは顔パスで私を部屋に上げてくれるし、猫たちの顔もみたいし、火村の帰りが遅ければ寝て待ってようなんて のんきな腹積もりだった。
「お葬式やったんか」
時間的に通夜ではないだろう。休みをとって葬式に参列したらしい。火村は真っ黒なネクタイをゆるめ、とがりぎみのあごをひいてうなずいた。
リアリストで無神論者の彼だが、社会の通例や礼儀は―――― しばりの少ない世界でふらふらしている私などより―――― よほどわきまえていて、周囲の価値観に自分の価値観をつきつけるような幼稚な真似はしない。どんな宗派の葬儀だったかは知らないが、神妙に葬儀に参列したのだろう。死後の世界を信じるような男ではないが。
式が終わってゆるめたのだろうが、今日はネクタイもちゃんとしめていったはずだ。きちんとワイシャツのボタンもとめられていて、かっちりと着こなしたスーツ姿は喪服であるのは一目瞭然だが・・・よく似合っている。
火村は何か用だったか?、とジャケットを脱ぎながら尋ねてきた。突然私が訪ねてくることは よくはないが以前にも数度あったことなので、そう不審に思われていない。現に なんの重大な理由もなく、ただ会いにきただけだ。明日は土曜なので遅くまで飲もうかという程度の目論見しかない。
が、それはお流れかな、と少し残念に思う。火村は私には・・・だけれど、元気がないように見える。聞きたそうな顔でもしていたか、彼は窓を開けたり湯をわかしたり作業をしつつ説明してくれた。
他大学の教授の葬儀だったこと。
死因は心筋梗塞で、事件性はないこと。
「どんな人やったん?」
「どうって・・別に」
彼は恩師というでもなく、さほど火村と親交があったわけではないが、会えばいろいろ話をした。熱心な研究者で、学ぶところも多かった。火村の学問のスタンスにも否定的な人物ではなく、つきあいにくい人ではなかったこと。
別にというわりにけっこうな答えが返る。
―――― 簡潔に言えば、火村はその人が好きだったわけやな。
口に出すと嫌な顔をするのがわかるので心でつぶやく。
どうにも、自分の感情や自分に関してはストレートな物言いができない男なのだ。ひねくれてるんだろう。
てきぱきとスーツから部屋着兼寝巻きに着替えた火村は、今日はもう出かける気はないようだ。湯が沸いたので、「コーヒーいれろよ」と命令をされた。素直にしたがってやることにする。
普段の時間より早かったが、私がデパートから仕入れてきた変わった惣菜と火村の昨日の残りだというビーフシチューで夕食にすることにした。
元気がないように見えたのが気のせいだったかと思うほど、その後の火村はいつも通りだった。
しかし私は、彼に関して私の勘に気のせいはない、と勝手に思うようにしているので、やっぱり火村は元気がないのだ、と信じることにする。
私が気づいた彼の変調はきっと真実だ。
杞憂か、気のせいかと思うほど、それはすぐに隠れたりなくなったりしてしまうけれど。
一瞬でも彼が見せるサインをもし私がとらえられたら。
無視しない。気づけないこともきっとあるのだろうけれど、見つけたところで私がそれをどうにかできることではないのだけれど。
傍目には強く強く見える友人の、本当はある弱いはかない部分に、まだ入り込むことはできないまでも、近づきたいと思う。知りたいと思う。
いつからだろうか。
私は、目の前の男に、
「箸渡しを」
「したことあるか?」
アリス、とわたしを呼ぶ抑揚の少ない低い声。
ああ。やはり君は傷ついている。
後半は火村さん視点。暗めです。
イダクルト 08.10/05