ねつが、下がらない。
あたえるねつ
犯罪人にはもったいないことに、高価な痛み止めを調剤されている。一時は点滴も。
けれど、脳の奥からうずくような、静かに、しかし絶え間なく沸き上がる痛みには気力を奪われる。
精神の消耗のためか術後のセオリーか、僕は熱を出して伏せっていた。
時間の感覚がないので正確には何日目なのかわからない。自分から失ったはずの目が、また僕の中に戻って、もう何日になるのだろう。
わかるのは。
目が覚めて、またうとうとと眠りに落ちて。それを2回くり返しても、彼がいないということだ。
右目の包帯はまだとれない。残った左目で彼の姿を探す。
囚人の部屋と囚人の相手に似つかわしくない、白くて、金色で、まぶしいくらい燦然としている人だった。
熱が下がらない。
死ぬのかもしれない。
一度は両の目ではっきりとその姿をとらえ、右目を失ってからも城の跡地で彼を見た。
彼が自分を救ってくれたのに、やはり死んでしまうのかもしれない。
そんな命運だったのか。僕も、・・・彼女も。
もう一度彼を見たかった。
けれど、死んだら、彼女にまた会えるのかもしれない。
死んでも生きても未練が残りそうで、苦笑してしまう。頬を動かすと右目のまわりがひきつれた。
一瞬遠のいた不調をまた強く実感する。体が熱い。
頭がかすむ。意識が遠ざかり、それでも、必死に扉に左目をやった。
ああ、いない。いない。
泣きたくなった。
そういえば、この右目は涙を流せるのだろうか。しょうもないことが気になって、どうなんだろうと考えながら、また浅い眠りに落とされた。
次に目を開けた時、僕は今こそ夢の中なのではないかと思った。
彼がいた。
病人用に灯りを落とされた部屋の中で、やはり僕にはそれでも光っているように見える人だ。
「起きたか。起こしたか?」
挨拶を抜いて尋ねられ、首を振ろうとして、寝たままなことに気づく。
僕が待っていた人――――玄奘三蔵法師はドアのそばにいて、こちらに歩み寄って来た。
ちょうど今来てくれた所なのか、前からいて、今帰ろうとしていたのかはわからなかった。
慌てて起きあがる。
少し前まで身をよじる元気もなかったのに、いくぶん身体が軽くなったような気がする。
三蔵法師は「寝てろ」と簡潔に僕を止めたが、聞かずに上体を起こした。起きて寝て起きて寝て起きて、彼に会ったのは久しぶりだ。
夢でない証拠のように、法師は僕に微笑みかけたりはしない。そんな表情は見たこともなくて、想像もできなかった。
いつもの無表情で、ただいつもと少し違うのは、
「あなた、ケガを」
法師は常と変わらない、す、とまっすぐに立っていただけだけれど、なんとなくわかった。
自分のものでない血のにおいがしたからか、三蔵法師の顔が少し青ざめていたからか、自分でも判然としないけれど。
三蔵法師は僕の言葉に少しだけ目をみはり、面倒くさそうではあったが事情を説明してくれた。
僕がひどい顔をしていたからだと思う。なんだかショックだったのだ。
そして僕は、僕が寝て起きて寝て起きて寝て起きての間、彼が所用で寺を空けていたこと。そのさいにケガを負ったが今日無事に帰ってきたことを知った。
お坊さんが用事で出かけてケガして帰る、というのは仏道に縁のない僕にもめったなことではないとわかったけれど、そういえば僕との出会いだって、お坊さんらしくないものだろう。偉いお坊様が、なんで指名手配犯をよるっぴて追っていたのだろうか。
ぱっと見にはどこをケガしたのかはわからない。けれど、僕は伸ばした手でなんとなく彼の左手に触れた。彼は少し眉を寄せたけれど、取り払いはしなかった。
ふわりとした白い法衣の袖をめくると、男性にしては肌理のあると思う肌が現れる。美しいその腕を隠すように法衣と同じ白い包帯が巻かれていた。
今僕には熱がある。
新しい目を入れられた右目はひどく痛くて、指先も熱を持ち、放ちつづけていた。
反対に、法師の腕はひやりとしていた。
右手の指で、彼の肌を辿る。冷たく、するりとしていて、包帯の上だけ感触が違った。
僕が熱いのだろう、法師は「熱が下がらないようだな」とつぶやいた。
自分のことなど、何も頓着していないみたいに。
なんていう無防備さだ。
めまいがする。
この人はなんでこんなにも僕に無防備なのか、知り合った短い時間で何度も不思議になる。連行の際手錠はいらないと言い、供も連れず僕の前に現れ、くれる言葉は少ないけれど、術後の体調をきっと心配して、何度も見に来てくれる。
今、千人もの人間と妖怪を手にかけた罪人の指先が、尊い肌に触れるのを拒まない。
このまま、ほんの少し力を込めれば、もろい手首の骨など簡単に砕けてしまう。
その力が今の僕には備わった。おぞましい、人以上の力。
いい加減放せとも、何も言わず、法師は何でもないような顔をしている。
たまらなく甘やかされている。
彼の冷たい肌から、確かに人の血の匂いがする。彼の血。彼の血の匂いだ。出血は止まったようだけど、傷はまだ乾いていない。なのに冷たい。
人よりも神に近いから。妖怪で大罪を犯した僕と、すべてが違う存在だから。
神なんていない。けれど、目の前の存在が神に愛された人だと何のためらいもなく信じられる。
僧侶としては外見も態度も変わり種なのだろうけれど、この人は何不自由なく生まれ育ち、まわりから愛と尊敬だけを受け、その証のように美しくまっすぐで、強くて。
僕の弱さをさらけ出し、前へ進めと道を照らしてくれる。
冷たい皮膚に神性すら感じるけれど、血の気のない表情に心が痛む。
この人が血を流し、冷たくなってしまうのは、神々しいのかもしれないけれどかわいそうだ。
部屋は暖かいのに。
僕の手もこんなに熱い。
なのに、温度は何も、何も彼には届いていない。
僕の、熱が。
少し、彼にうつればいい。
少し、渡してあげられたらいい。
冷たいと、傷ももっと痛みそうだ。
冷たいと、お腹も減らなそうだ。
冷たいと、かわいそうだ。
こんなにきれいな人なのに。
「・・・・おい」
法師が口を開いた。わずかに眉をひそめている。
「え」
その表情の意味がわからなくて、法師に合わせ目線を下げると、淡い光が部屋に浮かびあがっている。
法師の腕が、ぼんやりと光っているのだ。
「これは・・」
「俺じゃねェ。お前だ」
法師は言い切り、ややして僕の手を外し、腕を自分の胸へと持っていった。ケガをしていない方の手で、なぞるように触れている。異常ないか確かめているのだろう。
彼が離れると、僕の手ももう何もなかった。いつものまま。
さっき光っていたのは、法師の言葉通り僕の手、おそらく手のひら辺り・・・だったようだけど、少しじわりとした感触がある以外は何もわからない。
法師はおもむろに片手で器用に包帯を解いていく。
彼も僕も無言で、でも互いに、予感はしていたと思う。
さらされた彼の患部、のはずだ、さっきまで血の匂いも残っていた、それは、何もなかった。
腕の内側、つるりとしてそうな皮膚は、ただの皮膚で、
「――――・・・・」
治った、んだ。
「何か心得が?」
法師がこちらに向き直り尋ねるのに首を振って否定した。人間の身で、こんな特技があるわけがなかった。
あるとすれば妖怪になったこと、だろうか。
三蔵法師も同じく感じたようで、少し厳しい目で僕を見つめていた。
「身体に異状はないか」
といっても、元が本調子じゃないんだろうがな、と僕の腹の辺りに目を寄せた法師は、どこか困っているように見えた。
その様子に、今の力を使ったことで、僕に影響があるのではと彼が心配しているのだ、と気づいた。そう思うと、彼の言う通り、ケガも手術の傷も熱もある満身創痍の身なのに、そのつらさがなくなった気までして、心が浮き立った。
罪人の身と自分の身を同列に置くようなこと、この世の何人ができるというんだろう。
妖怪の身と、自分の身を同列にして、僕を心配してくれる。
彼の傷を癒せたのだ、その自覚がやっとできた。
僕は、理由はわからないけれど生まれた力で、自分の力でこの人を癒すことができたのだと。
その傷は命に関わるようなものじゃない。でも、その失血によって彼が冷たく青くなっていることが嫌で。熱を、与えたいと思っただけだったのに。
「僕は・・なんともないです。三蔵・・・さん」
彼に、ほんの少しでも歩み寄りたくて、そう呼んでみた。彼はそれを許してくれる。臆病にも、そう思ったからかもしれない。
「その力は、自分にも使えそうか」
「・・・どうでしょうか」
彼への思いが、自分にも向くのだろうか。
傷を癒せば、生きることにつながる。なくした目も入れてもらい治療を施され、個室で寝かせてもらっていてなお、僕は積極的に生きようとできるだろうか。
わからない。
彼女にあいたいし、彼の姿ももっと見てみたかった。
この包帯がとれたら、もっと鮮やかに彼を映すことができるだろうか。
「八戒」
「・・・・・・・・・・?」
僕の顔を見て、彼が出した知らない単語に、思考を止められた。
「八戒。お前の、新しい名前だ」
「名前・・・」
「お前が今、お前の力で俺の傷を治した」
「・・・」
たぶん、そうだろう。僕はよくわからないままうなずいた。
それを見て、彼が口角をあげた。微笑むに近いその表情を初めて見た。
つきり、と胸に何かが突き刺さる。
「でもお前も知らなかった力なんだろ。本当に治ったかまだ分からねェ。副作用が出て明日死ぬかも」
「何言ってるんですか!」
彼の言葉を遮って思わず叫んだ。
彼は全く頓着せずに、
「死ぬかもしれねェし、俺も妖怪になるかもな」
「・・・・・・・・そうそうなりませんよ」
肩の力が抜けた。
初めて見た彼の微笑みはにこり、なんてかわいらしいものじゃなくて、企んでる顔じゃないか。 この人、僕が思ってるよりずっと、したたかな性格なのかもしれない。なんてこった、だ。
彼はこう言いたいのだ。
未知の力を使ったからには責任をもてと。
いや、本当はそうじゃなく、先を考えろと。
明日を見ろ、と。
そのための目であり、
名前であり、
力だと。
「・・・・・」
笑いたくなった。泣きたくもなった。
「・・・はい」
でもちゃんと彼に答えたくて、なんとか返事をした。僕は今、どんな顔をしてるんだろう。
「あなたに何かあったら、また、僕が治します」
「おう」
彼が笑った。
目を細め、満足そうに笑った。さっきとはまた違う笑顔だった。
ああ、両方の目で見たかった。この人を置いて、どこにいけるんだろう。
彼女のいない世界はやまない雨だ。
光などない。重く暗い曇天だ。
けれど、その闇の中、みつけてしまった光は、あまりにまぶしくて。
end
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