悪気
 克哉は仕事を早めに切り上げて、寮には戻らずに真っ直ぐ自宅へと戻った。
 案の定玄関のドアの鍵が閉まっているのを確認して、重く溜息をついた。もしかしたら、達哉がもう帰ってきて家にいるかもしれないという期待はあっさりと砕かれ、項垂れながら克哉は家の中へと入った。
 達哉はここしばらく帰ってきていない。肯定するのは心苦しいが、これは立派な家出だろう。
 あの事件以来良好だった兄弟の関係も、そう簡単には上手くいかないらしい。今回もほんの少しの些細な口論で達哉は家を飛び出していった。いや、少し強く言い過ぎたかも知れない。
 今の良くなってきた兄弟間に安心しきってしまったのだろう。
(これじゃあ前と変わらないじゃないか…)
 克哉は冷蔵庫の中を覗き込んだ。達哉が居なかった分の食事が一切手をつけられずに詰め込まれている。
 重く溜息をついて、克哉はダイニングテーブルの席についた。そこから見える時計は無情に時を刻んでいる。


 理由などどうでもよかった。ただ口実さえあれば。実際これまでに至った原因でさえよく思い出せない。本当に些細な口論から始まった。いつも交わしているような、ほんの些細な口論。今はそれだけで、充分口実になる。
 達哉は恵比寿海岸が望める高台にバイクを止めて、特にすることも無かったのでぼんやりと海を眺めていた。兄克哉と顔をあわせなくなって何日目だろうか。実際には家出ではない。きちんと家へは戻っている。ずっと外で遊び歩いているわけにもいかないからだ。もちろん、克哉のいないときを見計らって、だが。
 達哉は今ごろの克哉の姿を想像しながら小悪な笑みを浮かべた。きっと焦っているはずだ。重い溜息でもついて項垂れていることだろう。
 このままずっと、俺だけのことを考えてくれればいい。
 近頃克哉の口から出てくるのは『嵯峨』の話題ばかりだった。「嵯峨が…」「嵯峨が…」「嵯峨が…」
 幸せそうに語る克哉の表情に、達哉は無性に腹が立った。
(大体一度も会ったこと無い人の話されてどうしろっていうんだよ…!)
 会った事もない兄の友人。
 つまるところこれは、嫉妬だろうか。悪く言えば子供じみた独占欲。あまり肯定したくない事実ではあるが、この感情まで否定するわけにはいかない。
 それでも今は、克哉は弟の帰りを家で健気に待っているはずなのだ。
「……仕方ないな。そろそろ帰ってやるか」
 達哉は夜の恵比寿海岸に向かって一人ごちた。


 なるべく音を立てないように静かに玄関のドアを開いた。ドアの鍵は開いていて、多分達哉が帰ってきてもすぐに入れるようにとの克哉の気配りだろうか。残念だが達哉は家の合鍵を持っているのでたいした意味はなかった。何より無用心だ。しかし帰ってきて鍵が閉まっているというのもなかなか味気ないもので、克哉の細かい気配りには少なからず関心するしかなかった。
 音を立てずにドアを閉める。玄関に入っても克哉が飛んでくる気配は無かった。いつもならここら辺で克哉が飛んできて長い説教が始まるのだが、まるで音沙汰が無い。
 疑問符を浮かべて電気がついているダイニングまで向かった。
 ダイニングテーブルでは克哉がテーブルに突っ伏して眠っていた。これでは出迎えもないはずである。
「兄貴?」
 小さく声を掛けてもまるで起きる気配が無かった。達哉は側まで近づいていった。まだ仕事帰りのスーツ姿のままである。ここで帰りを待っていてそのまま寝てしまったのだろうか。腕の中に顔を埋めてすっかり眠りについている。少しだけのぞく横顔がほんの少し達哉の良心に引っかかった。
 悪い事をしたとは思っていないが。
 達哉的には不本意ながらも少しだけ、ほんの少しだけ克哉に対して謝罪の気持ちを込めて。その横顔の頬に軽くキスを落としてやった。相変わらず克哉は目覚めない。
 達哉は呆れて克哉の向かいの席に座った。
「おい。起きないのか」
 起きたら起きたですぐに小言が始まるのだろうが。
「馬鹿兄貴。いつまで寝てんだよ。人が折角帰ってきてやったのに」
 もしかしたらここ数日の間のせいですっかり気苦労が溜まってしまったのかもしれないが、今の達哉にしてみればそんなことは関係が無い。
「おいってば」
 達哉は克哉の腕を引っ張った。支えていたものが無くなった克哉の頭はテーブルの上にゴトッと音を立てて落ちた。その衝撃で克哉が目を覚ました。
 しばらく焦点の合わない視線をさ迷わせてから、すぐに目の前の達哉に気がついた。
「た、達哉?!」
「ただいま」
「あ、ああ。お帰り……じゃなくて!今までどこへ行ってたんだ!心配したんだぞ!連絡の一つもよこさないでふらふらと!」
「普通家出したら連絡入れないだろ」
「そうやってすぐ人の揚げ足を…!……でもまあ、良かった。きちんと帰ってきてくれて…」
 安堵の表情を浮かべた克哉に達哉は少しだけ不審の目を向けた。
「怒らないのか?」
「怒られたいのか?おかしな奴だな」
 克哉はふっと笑みを漏らした。
「とりあえず今は、お前が帰ってきてくれて安心してるんだ…」
「…どうせ寝起きの頭じゃ説教も出来ないからだろ?」
「…何か言ったか?」
「別に」
 克哉の台詞が続く前に、達哉はキッチンへと逃げた。何気なく開けた冷蔵庫の中にはここ数日分の食事が手付かずのまま詰め込まれていて、あまりの克哉のまめさにこっそりと嘆息した。
 少しだけそれをつまんでいると、克哉の独り言が聞こえた。
「…もう一度あいつにメールでも入れとくか」
 聞き逃さなかった達哉がつかさず口を挟んだ。
「あいつって、誰」
「嵯峨だが?」
「嵯峨?なんで」
「今日あいつと会う約束をしていたんだが、いつお前が帰ってくるか分からなかったから断わったんだ。もう一度謝罪のメールを入れようと思ってな」
「…へぇ」
 達哉は少しだけ笑みを浮かべた。
「俺のせいで嵯峨さんとの約束駄目になったんだ?」
「別にそんな急いた用だったわけではないからお前が気にすることは…って、どうして笑ってるんだ?少しは反省してるんだろうな?」
「してるよ、ほんと。ふ〜ん…俺のせいで、か」
 達哉は克哉に気付かれないように笑みを漏らした。
(どうやら今回は、俺の方に分があったらしいな、嵯峨さん)
 たまの家出もまんざら悪くは無いなと、達哉は思わずにはいられなかった。

END



〜スガル様のお言葉〜

 伊田くると様からのリクエスト『謝るたっちゃん』でした。
達哉、口には出していませんが、心の中で少しだけ謝っています(笑)これでも謝っているんです(力説)
何故だか達哉VS嵯峨みたいな感じになってしまいましたが…。
どどど、どうでしょう?(汗)こんなんですが、伊田さん貰ってやって下さい。

 ぎゃーーーっっ!!。ありがとうございますーーーvv。
『謝るたっちゃん』、という変なリクをこんなカッコよく仕上げていただけるなんてvv
 ラストの、嵯峨さんより優先されたことを喜ぶたっちゃんがかわいくってたまりませんvv
もー、達哉VS嵯峨大好き人間なのでv。
 このお話だと、まだ二人は会ってないんですね。嵯峨も嵯峨で達哉に嫉妬してたらすんごい嬉しいです。
めちゃくちゃ短期間に完成のメールをいただけて、幸せ&ビックリです。スガル様すごすぎる〜〜〜
 ステキ小説を、本当にありがとうございました!!!。
伊田くると
達哉 「でもカギ開けとくなんてやっぱ不用心だぞ。泥棒とか変質者が入ってきたらどうするんだ」
克哉 「ハッハッハ、もうゲームクリア後だから僕はレベル70なんだ。だからたいていのことは平気だぞ」
達哉 「・・・・・・・レベル・・・・???」