犬猫のように。
自分は捨てられるのだ。
それを恨みも怒りもできない。
もともと、
俺は人になれない、犬猫のようなものだった。
もう
一度
だけ
絶えずしていた、下階の 喧騒というほどでもない気配が薄くなった。
最後の客を見送り、簡単な後始末を終えて 主人と住み込みの従業員も眠りについたのだろう。
店が閉じられたのだ。
―――― ああ、そんな時間なのか。
テレビもつけておらず、人の気配もなくなって、あたりは本当に静かになった。
夕食を終え、新八が家へ帰り。
食休みした後、神楽と交代で風呂に入って。
おやすみのあいさつをしてパジャマを着た神楽と犬が押入れに眠りに行くのを見送って。
風呂には入ったけれども まだ平服のままの俺は、それからずっと。
応接間のソファに ぼんやりと腰掛けた。ただずっとそうしていた。
絶望にも似た あきらめの気持ちがどんどん大きくなっていくのを自覚しながら、ぼんやり、来るか分からない客を待っていたのだ。
ひとつ ため息をついた。
思った以上に深刻な重いため息で、気力まで抜け出てしまいそうだった。
世界は暗かった。
昨日は遠く、明日もまだ来ない、そんな時間だ。
神楽は熟睡しているだろう。新八も。
その姉のお妙は仕事をあけて そろそろ家に戻っただろうか。きっと コンビニの袋をぶら下げているのに違いない。入っているのはハーゲンダッツ。
また太るぞと思った。あんな高いアイス、自分は めったに口にできないのに。
もう寝ようか。
と、思う。
眠気は きそうにないけれど。
もう、待っていても仕方ないのだ。そろそろ認めなければ。
「・・・・・・・・・」
もう、ムリなのだ。
俺にとっては とても大切な、すがるように切実な約束は一向に守られず、連絡もなく、時間は過ぎて。
きっと後から、耳にしたくもないのに、噂になりやすい男の夜の行動を ほうぼうから知ることになって。
その繰り返しは、
もう何度も繰り返されたことの繰り返しは、
なんだか、とても。
―――― 暗く冷たく、乾いていた頃を思い出す。
自分の指先に目を落とした。
この手が、今の四分の一ほども 小さかった頃の。
あの暗く冷たく、乾いていた頃を思い出してしまう。
もうあの時代は過ぎたのに。終わったのに。
まだ あそこにいるんじゃないかと、あの人に会えないまま、暗い世界を ただ生きているのではないかと、全身で恐怖する。
きっと このまま、誠意を尽くす言葉もなく、自分は捨てられるのだ。
犬猫のように。
あの頃の自分のように。
主人の愛を受けられず、打ち捨てられる。ほんのわずかな罪悪感だけを持って、放るように捨てられ。そしてほどなく忘れられる。
もともと、自分は犬猫のようなものだった。
野良で、長く生きる保証もない異形の生き物だった。
先生に拾われ、愛され、あたたかい暮らしを得て、変われたと思っていたけれど。
やはり 元より価値のないモノなのだろうか。
愛する相手に、満足してもらえないモノなのだ。
自分でも そう思ってしまうから、
あいつに、
何も言えない。
「・・・っ」
沈むように進む思考を、打ち切るように頭を振る。
忌み嫌われた白い髪が頬を打ち、なお陰鬱な気持ちになった。
助けてと 追いすがるように、もう心の中にしかいないあの人の面影を探す。
やわらかい微笑み。
真摯で、静謐な光をたたえた瞳。穏やかな言葉。
鬼の子のような白い頭を、ためらわず なでてくれたあたたかい指先。俺のために下さった言葉。
―――― 先生。
―――― 先生は。
俺を、ひとりの人間として育ててくれた。
晋助と同じ、ヅラと同じ、
みんなと同じ、人だとおっしゃった。
俺も そう思いたかった。
けれど心のどこかで、晋助よりもヅラよりも、劣っていて、汚くて、卑小で、愛されないモノだと、どうしても考えてしまった。
―――― だって先生、
―――― 俺は、愛してもらえないんだ。
ひとりの人間に、ただひとりとして愛されないのは、そのせいなのか。もとよりムリな願いだったのか。
先生、 先生、
電話は鳴らない。
深夜を過ぎても、あいつは来ない。
ちっぽけな約束は とても簡単に破られ、目の前の、俺の知らない女に、あいつは簡単に腕を伸ばし。
俺のことなど、ひとときも思い出さずに、幸せな時を過ごす。
愛されないのは俺のせいか。
人と並ばない生き物だからか。
先生が俺を愛して下さったのは、ほかの人間より慈愛に満ちた方だったからで、俺のようなモノが、ほかと同じように求めることなんか、最初から かなわないものだったのか。
なら そう言って欲しかった。
期待し、幸せの予感に酔っていた頃を思い出すと、今とてもつらい。
幽鬼のように ぼうと音もなく歩き、机の引き出しから紙束を取り出した。
ほぼ無意識の動作だったかもしれない。いつしか、繰り返すうちにクセになってしまっていた。
ばさりと机の上に広げ、立ったままそれを見下ろした。
腕を伸ばし、点字を読み解こうとするように、ひたすらに紙面を指でたどる。何十枚もの白い紙の上、黒々とした墨がひかれている。美しい文字が並んでいる。
生前、先生の書かれた書を、ヅラが引き写してくれたものだ。
本を捨ててしまったと言った俺に、呆れて、自分のものはやれないが、写してやったと言って ある日持ってきた。
そうだ。
あの人は殺され、家はお上に改められ、先生の思想に関わるものは みな回収され処分された。
俺含め、生徒らひとりひとりに配られたものしか、もうないのだ。
もともと俺は真面目に授業を受けてはいないし、彼の思想より 彼そのものが好きだったので、あまり本には執着もなかったのだけれど。
ヅラも晋助も、あの人のもとにいた皆が大事にしていた本を、写し、持っていろと寄越そうとしたヅラの気持ちの方が こそばゆくも嬉しくて、珍しく ちゃかしもせずに受け取ったのだった。
ヅラの筆は美しい。
品行方正で生真面目な性格が よくあらわれていると思う。
彼に並ぶ才能で、塾で ともに目立っていた晋助の方は、あれでいて 悪筆なのだ。好き放題に はねて曲がってとんがって暴れて。でもそれは、優秀でありながらも破天荒だったヤツらしいとも思う。
―――― 先生と、塾生に囲まれて育った日々は俺の宝だ。
今 神楽や新八、定春と家族のように一緒にいられる日常もまた。そうできたのは、過去の彼らのおかげだと思う。
そうでなければ、俺は人との接し方など まるで分からなかったのだ。家族のように愛されたから、また新しい家族を持てた。
それで十分だったのに、
とても幸せなのに、
俺は欲張りだな。
―――― もうひとりだけ、あとひとりだけ、
そばにいてほしい相手ができたのは、いつからだったろう。
「・・・・・っ」
ぼとりと落下した水滴を吸って、紙が ぶわりと丸くにじむ。
気づくと ぼろぼろと涙がこぼれていて、あわててティッシュで紙を押さえた。
ほんの少し文字の輪郭が にじんでふくれてしまう。
涙は そのまま止まらなかった。
書を汚したくなかったので 手から離して机のすみに避け、それから力なく 机にすがり、ずるずるとしゃがみこんで顔を伏せてただ泣いた。
神楽を起こしたくなかったけれど、それでも嗚咽は我慢できず、子供のように声をひきずって泣いた。先生、先生、といない人の名を呼んだ。
先生、
もし今日、あいつが来なかったら。
もう、あきらめようと決めていたんだ。
なのに、先生、
俺、自分で決めたことなのに。
とても苦しくて、恐くて、ダメになりそう。
来てくれ。
お願いだから。
何時間遅れてもいい。
寝ないで、待ってるから。
ひとことでもいい。
俺に何か言って。
俺を捨てないで。俺を忘れないで。
俺を好きだと言ってくれた日のことを、思い出して。
◆◆ ◆ ◆ ◆◆ ◆ ◆ ◆
「まだ持ってくれていたのか」
ヅラは、とても穏やかに笑って、少し黄ばんだ紙束の入った袋を手にした。
窓からの木漏れ日に、まぶしそうに目を細めて こちらを見やるその表情に、かつての師を思い出して、なつかしいような、さみしいような、複雑な気持ちがする。
とても尊敬していたからか、ヅラも年を重ねて落ち着いてきたのか。
弟子達の中で、彼が一番 師の面影を映しているようだ。
今年 俺達は、師の亡くなった年に追いついた。
まだまだ とても、彼には追いつけないけれど。
いろいろあったけれど、今 時間は とても優しく流れている。
彼と共に過ごした日々のように。
「なつかしいな」
「・・・・おう」
ヅラに見つかってしまったことが決まり悪かったけれど うなずいた。
捨てずに持っていたことよりも、透明のビニールに入れてたことで 目に留められてしまったこと、そんな大事に包んで新居に持っていこうとしてるのがばれたこと、俺は どっちが恥ずかしいんだろう。と悩んだ。いや、どちらも恥ずかしい。
万事屋の事務所は今、いくつものダンボールが散在している。いや、いつもと変わらず営業中なのだけれど、お客さんが来ないので 荷造りが進む進む。ってコレ悲しいな。
あらかた終わって、そろそろ封をしようかというところだった。活躍していたガムテープが ついに切れたので従業員達に買いに行かせている。ついでに昼メシも頼んだので、ちょっとひと息入れようかというところに、ヅラがやってきたのだ。
こいつは いつもアポなしなので、ダンボールの中のそれを見られてしまったのは予想外だった。目ざといヤツ。さっさと封しときゃよかった。ガムテープめ。
―――― 物に執着も少ないし、持ち物は多くない方だけれど、いつの間にか捨てられないものというのは増えているものだ。
こいつからもらった、先生の書の引き写しも。
子供の時同様、真面目に中を読んではいないけれど、ずっとそばに置いていた、大切なものだった。
新たな住まいに、持って行こうと思ってる。
「あ、ちょ」
「やっぱり汚れて読みにくいな」
ヅラは ひょいと、止める間もなく袋をあけて中を広げた。お前が書いたものだからって、もう五年も昔に俺がもらって俺のものなんですけど。
「にじんでいる。またラーメンでも こぼしたんだろう」
「・・・・・・・・・ちげーよ」
苦笑してしまった。
相変わらず だらしないなとか説教されたけど、反論もできない。もう、ラーメンってことでいいです。
「・・・・・・」
写しの書をヅラにもらった頃。
俺は、恋をしていた。それは初めてで、本気で、けれどとても臆病な恋だった。
悲しい事も多かった恋だったから、俺は子供達に隠れてよく泣いていて。
つらい時は、ひとりこの紙束を手にして、先生のことや、塾のこと、ヅラや晋助のことを思い出していたので。
気をつけていたけれど、まあぶっちゃけ涙のあとが残っているのだ。
こんなに。
優しい気持ちで、そう思い返せる日がくるとは思っていなかった。
一度は捨てる決意をしたのに、どうしても心から消せなかった思いは、今はあたたかい光の中で、あの頃以上に大きく育っている。
「また書き写してやろうか」
ヅラが書を たもとに入れてしまおうとするので慌ててとめた。
「いい !。いらねぇよ。・・・・・・・それがいいんだ」
ヅラの腕をつかんで、そして、ちょっとだけ悩んだけれど、
「とても救われたんだ。・・・・・ありがとな」
言いたかったことだった。
先生や、お前たちがいてくれたから。
俺は、確かに愛されていた、記憶があったから。
恐かったけれど、本当に恐かったけれど、もう一度、信じてみる気になったのだ。
捨てられるかもしれないという恐怖に耐えて、また恋を続ける勇気を搾り出せたのは、あいつの手を もう一度つかむ気力が生まれたのは。先生や塾生たちと、そして今 俺のそばにいてくれる子供達 (ってほどもう子供じゃないが) の存在のおかげで。今 目の前にいる、お前の、おかげで。
「よしてくれ。花嫁の父みたいな気分になるだろう」
ヅラは複雑なカオをして、書を また丁寧に袋に入れ、元の通り、荷物の一番上に戻した。向き直ったヅラは、せっかく整った顔面を、ほんとに なんとも言えない複雑なカオにしていた。
たまらなくなって、子供の頃みたいに抱きついた。
俺より小柄なくせに しっかり受け止めてくれた幼馴染の腕が背中にまわり、そのまま ぎゅっと抱きしめられて、やっぱり先生を思い出した。
花嫁の父とか。変なこと言うなよ。
父。
俺の、お父さん。
そう思ってしまうのは師にもヅラにも申し訳ない気もするけれど。
とても幸せな言葉で、甘い言葉だと思った。
「オッサンだけど。でも 俺も今 そんな気になった」
カオをあげてヅラを見ようとしたら よく見えなくて、やばい泣いていると思って あわててうつむいてヅラの肩に ぎう、と強くでこを押し当てた。鼻がツンとする。
もちろんバレてるのだろうけど、ヅラは何も言わない。ひやりとした感触の女のような細い指が髪をなでる。頑張ったなと褒めてもらっている。そんな優しい指だった。
デリカシーのなかったこいつも大人になったものだ。空気を読めるようになったんですね。助かります。
―――― なあヅラ。
俺ね、先生や、お前や晋助や・・・あの頃のみんなの愛情を疑いたくはなかったけど、少しだけ、恐かった。
自分が信じられなかったんだ。そのぐらい、人とも言えないような生活を俺はしていた。汚い心で生きていた。
でも、俺を拾いあげてくれた先生の愛情を。
しかりつけて世話焼いて そばにいてくれたお前の愛情を。
怒鳴ったり殴ったり意地悪だったけれど、でも 俺がほかのヤツに外見を理由に いじめられたら一番に助けてくれた晋助の愛情を。
今 本当に、心から信じて、そして幸せに思うんだ。
世界が すべて優しいような、そんな気持ちになれるんだ。
ヅラの着物に ぽとりぽとりと染みていく涙は。
あきらめと慟哭とさみしさの涙じゃない。
あの頃と違う、本当に違う、幸せな涙だった。声を殺さず、俺は子供みたいに泣いた。
「銀時。あんまり泣くな。俺まで泣きたくなるだろうが」
「くそ。幸せになれなんて、ぜったい言ってやらないと思っていたのに」
「もう泣くなよ。先生もきっと天国であきれておられるぞ」
「銀時。困った。銀時、泣き止んでくれ」
「なにかあったら一番に言うんだぞ。相手は暴力警官だ。いやむしろカスだ。理不尽なマネをされたら ちゃんと言うんだぞ。俺が成敗してやるからな。本当は そういう荒っぽいのは高杉の役目なんだがな」
「ああ、そうだ。この間 高杉に会ったんだが、お前と 幕府の狗のこと言ってやったからな。怒ってたぞー。絶対 妨害しにくるぞあいつ。覚悟しとけよ」
「ああもう。おい銀時、頼むから もう泣き止んでくれ。実を言うとだな、ちょっと重・・・いていていて !!! ギブギブ !!!」
その後、ガムテープ買って帰ってきた神楽も新八も。
どんな連鎖反応なんだか、みんなしてヅラに抱きついて 一緒に泣いて、いつの間にかヅラまで泣いて。
涙のスクラム作ってた俺達に、新居の鍵を指にひっかけ、引越し用の車に乗ってやってきた土方がびっくりして、あきれまくって、それから、笑った。
終
5年後・銀さん編でした。土方さん一瞬しか出てこないけど。
そんなかんじでめでたしめでたし。
イダクルト 2009/12/4